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「うどんが打てないと嫁に行けない!?」— 暮らしの中にあった埼玉の手打ちうどん

うどんカフェ 水木金土のうどん

「うどんが打てないと嫁に行けない」

いま聞くと、ちょっとびっくりする言葉です。

でも、かつての埼玉では、そんな言葉が出るほど、家でうどんを打つことが身近でした。

では、羽生に近い県北・東部では、うどんは暮らしの中でどんな存在だったのでしょうか。

前回の記事では、米の裏作として小麦を育てる「米麦二毛作」と、埼玉に粉食文化が根付いた背景を紹介しました。

今回はもう少し食卓に近づいて、家でうどんを打っていた時代の暮らしをたどります。

1. うどんを「家で打つ」のが身近だった時代

かつて埼玉では、稲作の裏作として小麦栽培が広く行われていました。

その小麦を使ったうどんは、農家の日常食としてだけでなく、冠婚葬祭や年中行事などさまざまな場面で食べられてきました。

羽生から近い久喜市には、大正から昭和にかけての食の聞き取り記録が残っています。

久喜では昭和中頃まで、麦が主要な農作物でした。

農家では、収穫した小麦を石臼で挽いて粉にするところから、手打ちうどんを作っていました。

粉に少し塩を入れて練り、コシを出すために足で踏む。ゆでたら水にさらし、醤油味のつゆにつけて食べることが多かったといいます。

今なら「手打ち体験」になりそうな作業が、かつては家の中にあったのです。

2. 日常食であり、「ごちそう」でもあった

うどんの鉢に手を伸ばす女性を描いた江戸の団扇絵。歌川国貞(初代)、1825年頃、アムステルダム国立美術館所蔵(CC0、ウィキメディア・コモンズ)

ここで面白いのが、昔のうどんを単なる「手軽な農家飯」と考えると、少し実態と違って見えてくることです。

久喜では、石臼で小麦を挽くところから始める手打ちうどんは手間がかかるため、人が集まるときのごちそうでした。

お盆には「朝はぼたもち、昼間はうどん、夜は米の飯、トウナス汁よ」と言われ、作ったうどんは盆棚にも供えました。

お祝いで人を招いたときは、最後に必ず手打ちうどんが出てから、お開きになったそうです。

うどんは「普段の食事」と「特別な日の料理」の両方に登場する、暮らしに深く根付いた食べ物だったのです。

3. 加須では、今も冠婚葬祭の締めにうどん

羽生のお隣、加須でも、うどんは暮らしと深く結びついてきました。

加須では昔、うどんはお祭りなどの特別な日に、大切なお客さまをもてなすごちそうでした。

今も冠婚葬祭などの締めくくりには、うどんがよく振る舞われています。

4. 「うどんが打てないと嫁に行けない!?」

埼玉にはかつて、

「うどんが打てないと嫁に行けない」

なんて言葉もあったそうです。

もちろん、今ならちょっとびっくりする話。でも、この言葉から伝わってくるのは、それだけ「うどんを打つ」ということが特別な料理ではなく、暮らしの中の身近な手仕事だったということです。

小麦を粉にして、こねて、伸ばして、切る。

家族で食べるだけでなく、人が集まる日にはたくさん打って振る舞う。

それだけ、うどん打ちは暮らしの中で当たり前の技術だったのでしょう。

一方、加須には、春と秋の彼岸や正月などに男性がうどんを打ち、女性の日頃の苦労をねぎらう風習も伝わっています。

うどんを打つのは、ただ食事を作るためだけではなく、家族や人とのつながりの中にある仕事だったのでしょう。

おわりに:一杯のうどんから、昔の暮らしを見る

家で粉からうどんを打つ機会は、昔に比べれば少なくなりました。

それでも羽生や加須には、今もうどん店がたくさんあります。羽生とそのまわりの15軒は、羽生ナビの「羽生うどんマップ」にまとめています。

その一杯の背景には、小麦を育て、家で麺を打ち、人が集まればうどんを囲んできた埼玉の食文化があります。

いつものうどんを食べるとき、少しだけ昔の台所や食卓を想像してみる。

そんな楽しみ方も、この土地でうどんを味わう面白さのひとつかもしれません。

動画で見る「埼玉のうどん文化」

「うどんが打てないと嫁に行けない」って、どんな時代だったんだろう?

埼玉のうどん文化について、TBS NEWS DIGの特集でも紹介されています。昔のうどん打ちの話から、現在の埼玉の個性豊かなうどんまで、映像で楽しめます。

参考資料

関連リンク

※地域や家庭によって、食の習慣には違いがあります。

(資料確認日:2026年10月4日)

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