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連載「羽生の歴史をたどる」第2回・歴史

昔の利根川は、東京湾に流れていた — 400年前、羽生で始まった「川の大改造」

利根川に架かる昭和橋。橋のたもとの羽生市側に道の駅はにゅうがあります(2006年9月、群馬県明和町側から撮影。撮影:竹太郎、Public Domain、ウィキメディア・コモンズ)

いま、羽生の北を流れる利根川。

その流れを地図で追っていくと、茨城県と千葉県の県境を東へ進み、最後は千葉県銚子市から太平洋へ注ぎます。

ところが、400年以上前の利根川は違いました。

利根川は、太平洋ではなく東京湾の方向へ流れていたのです。

現在のような流れになった背景には、近世初頭から約60年をかけて行われた大規模な河川改修があります。

一般に「利根川東遷」と呼ばれる事業です。

そして、その最初期の重要な工事が行われた場所が、ここ羽生でした。

1594年、羽生で、利根川から南へ分かれていた一つの川筋が締め切られます。

その川の名は、「会の川(あいのかわ)」。

現在の関東の地図につながる、長い「川の大改造」の始まりです。

1. 昔の利根川は、羽生で二つに分かれていた

江戸時代より前、現在の羽生市新郷と川俣の境付近で、利根川は二つの流れに分かれていました。

一方は東へ、もう一方は南へ向かいます。

この南へ向かっていた流れが、会の川です。

そして当時の利根川水系は、現在のように銚子から太平洋へ流れる姿ではなく、関東平野を南へ流れ、江戸湾(現在の東京湾)方面へ注いでいました。

つまり、現在の地図をそのまま400年前へ持っていくことはできません。

川そのものが、今とは違ったのです。

2. 1594年、羽生で一つの川を止める

大きな転機となったのが、文禄3年(1594年)です。

当時の忍城主だった松平忠吉が、付家老の小笠原三郎左衛門吉次に命じ、南へ流れていた会の川筋を締め切ったと伝えられています。

松平忠吉は、徳川家康の四男です。

新郷に堤を築き、南へ分かれていた流れを止める。

これによって、利根川の水は東側へまとめられていくことになります。

ただし、「1594年に羽生で川を止めたことで、現在の利根川が完成した」わけではありません。

ここからが長いのです。

3. そこから約60年。川を、掘って、つないで、組み替える

1594年に会の川を締め切ったあと、1621年には新川通や赤堀川の開削が始まり、その後も江戸川や逆川の工事が続きます。

そして1654年、赤堀川への通水によって、利根川の水が東側の常陸川水系へつながっていきました。

1594年の会の川の締め切りから1654年まで、約60年にわたる一連の河川改修が、現在の利根川の骨格をつくりました。

一本の新しい川を掘っただけではありません。

川を締め切る。新しい流路を掘る。別の川へつなぐ。水の流れる方向を変えていく。

こうした工事を何十年にもわたって積み重ねることで、利根川の流れは少しずつ東へと移されていきました。

私たちが現在地図で見ている利根川は、自然の営みだけでなく、こうした長い河川改修の歴史の上にあるのです。

4. なぜ、そこまでして利根川を変えたのか

利根川東遷は、「江戸を洪水から守るため」と説明されることがあります。

確かに、それは重要な目的の一つでした。

ただし、理由はそれだけではありません。

江戸を利根川の水害から守ることに加えて、新田開発や舟運の整備も、東遷の目的に挙げられています。

川は、洪水をもたらす脅威である一方で、農地を潤す水源でもありました。

そして道路網が十分に発達していなかった時代には、大量の荷物を運ぶ重要な交通路でもありました。

葛飾北斎『千絵の海 総州利根川』(1830年代)。下総の利根川で、舟から網を打つ漁師が描かれています(Public Domain、ウィキメディア・コモンズ)

つまり問題は、「危険な川をどう遠ざけるか」だけではありません。

水をどこへ流すのか。どこを農地にするのか。どの川を物流に利用するのか。

利根川東遷は、関東平野の水の使い方そのものを大きく変えていく事業でもありました。

ただ、流れを変えれば、水の行き先も変わります。

東遷のあと、利根川の下流には上流から運ばれた土砂がたまるようになりました。そのため千葉の印旛沼には、利根川があふれるたびに水が逆流し、沼のまわりの村々は洪水に苦しむようになります。

江戸時代には、印旛沼の水を江戸湾へ抜く掘割の工事が3回試みられました。享保の工事(1724年)は資金が尽きて挫折し、老中・田沼意次の天明の工事(1782年〜)は1786年の大洪水で、老中・水野忠邦の天保の工事(1843年)は水野の失脚で、それぞれ止まりました。

印旛沼の水害に決着がついたのは、1969年(昭和44年)に印旛沼開発事業が完成したときです。羽生で始まった川の付け替えの影響は、下流の千葉で300年余り続いたことになります。

赤松宗旦『利根川図志』(1855年)の地図。右上に印旛沼、左下に霞ヶ浦、その間を利根川の下流が流れています(出典:埼玉県立図書館、CC BY-SA 4.0、ウィキメディア・コモンズ。縮小して掲載)

5. 「徳川家康が羽生で川を止めた」わけではない

ここは、歴史を面白くするためにも正確にしておきたいところです。

利根川東遷は、徳川家康の関東入府以降に進められた大規模な河川改修として語られています。

しかし1594年の会の川の締め切りは、忍城主の松平忠吉が命じ、付家老の小笠原三郎左衛門吉次が指揮したと伝えられている工事です。

徳川家康が羽生へ来て、会の川を締め切ったわけではありません。

家康の関東入府後に進められた河川改修。その最初期の重要な工事の一つが、家康の四男・忠吉が治める地域で行われたのです。

そう捉えると、この工事の位置づけが見えてきます。

もう一つ、知っておくと面白いことがあります。利根川の大規模な付け替えが始まった16世紀の古文書は、残っていません。

「1594年の会の川の締め切りに始まり、1654年に太平洋へ注ぐ流れが定まった」という利根川東遷の筋書きは、明治時代に江戸時代の文献をもとに組み立てられたものです。1980年代以降は、各地の自治体史の編さんで新しい史料が見つかり、付け替えの時期は歴史学や地理学からも詳しく検討されるようになりました。

家康が最初から「銚子まで流れを変える」完成形を描いていたのか。それとも、目の前の水害や新田、舟運に応じた工事が積み重なった結果だったのか。そこに想像の余地が残っているのも、この歴史の面白さです。

6. 400年前に川を止めた場所の近くに、いまも石柱が立っている

この歴史が面白いのは、資料を読んで終わりではないことです。

会の川を締め切った場所は、「川俣締切跡(かわまたしめきりあと)」として埼玉県の旧跡に指定されています。羽生市では「会の川締め切り跡」とも呼ばれています。

ただ、締め切りの堤そのものは残っていません。いまの利根川の堤防の下か、その内側にあったと考えられています。

その目印として、道の駅はにゅうの敷地に、旧跡を示す石柱が立っています。石柱はもともと、いまの場所から400mほど東に立っていたものです。

「埼玉県指定史跡 川俣締切址」と刻まれた石柱(2011年4月撮影。撮影:京浜にけ、CC BY-SA 3.0、ウィキメディア・コモンズ。縮小して掲載)

何も知らずに通れば、見過ごしてしまうかもしれません。

でも、ここで400年以上前の地図を重ねてみると、景色の意味が変わります。

かつて、このあたりで利根川は二つに分かれていました。

その一方を、1594年に締め切りました。

そこから約60年をかけて、さらに下流の川を掘り、つなぎ、流れを東へ移していきました。

そして現在、利根川は銚子から太平洋へ注いでいます。

小さな史跡の向こうに、現在の関東の地図がつながっています。

締め切られた会の川そのものは、どうなったのでしょう。いまも流れています。羽生市上新郷のあたりから南東へ流れ、羽生では田んぼの間を通る農業用水路・排水路として使われています。その先の加須市では市街地を抜け、会の川親水公園や桜並木の続く川沿いが、ウォーキングコースとして整えられています。

かつての利根川の本流が、形を変えて羽生と加須の暮らしの中を流れているのです。

7. そして66年後、羽生では「水を使う」歴史が始まる

会の川の締め切りから66年後の1660年。

羽生の水の歴史には、もう一つ大きな節目がやってきます。

今度は、川を「止める」話ではありません。

利根川の水を取り入れ、広大な農地へ送る。

葛西用水です。

長い年月をかけて水源を上流へ求めてきた葛西用水の水路体系は、1660年、羽生市本川俣で利根川へ到達しました。

会の川の締め切りが「川をどう流すか」という歴史なら、葛西用水は「その水をどう使うか」という歴史です。

この二つの史跡が同じ羽生に残っていることで、この地域と利根川の関係がより立体的に見えてきます。

おわりに:いまの利根川は、「昔からこの形だった」わけではない

普段、地図に描かれている川を見ると、それがずっと昔からそこを流れていたように感じます。

でも、羽生の歴史をたどると、その思い込みが崩れます。

昔の利根川は、東京湾の方向へ流れていました。

1594年、羽生でその一つの川筋が締め切られました。

そこから約60年。

いくつもの川を掘り、締め切り、つなぎ替えながら、現在につながる利根川の骨格が形づくられていきました。

「羽生が東京をつくった」とまで言う必要はありません。

実際に起きたことだけでも十分です。

400年以上前、現在の関東の川の姿を大きく変えていく最初期の工事が、羽生で行われました。

次に利根川の堤防を通ったときには、少しだけ現在の地図を疑ってみてください。

この川は昔、どこへ向かっていたのか。

その答えの一つが、羽生に残っています。

あわせて読みたい

会の川の締め切りから66年後の1660年、羽生市本川俣では、利根川の水を広大な農地へ届ける水路がつながりました。

現地を歩く

道の駅はにゅう(2011年11月撮影。撮影:(WT-shared) Shoestring at wts wikivoyage、CC BY-SA 4.0、ウィキメディア・コモンズ。縮小して掲載)

羽生市の散策マップ「新郷歴史散歩」には、会の川締め切り跡碑のほか、川俣関所址碑や勘兵衛松の並木など、新郷地区の史跡も載っています。

参考資料

※会の川の締め切りを利根川東遷の始まりとする見方は、羽生市・国土交通省・関宿城博物館の資料に沿うもの。締め切りは忍領の水害対策で、東遷の始まりは1621年とする研究もあります。

(資料確認日:2026年10月4日)

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