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羽生を知るコラム・歴史

東京まで続いた「80kmの水路」が、羽生で利根川につながった — 葛西用水は、いまも現役だった

歌川広重『名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね』(1857年)。いまの東京スカイツリーのあたりを流れていた四ツ木通用水と、綱で引かれる舟が描かれています(国立国会図書館所蔵、Public Domain、ウィキメディア・コモンズ)

羽生市本川俣に、「葛西用水取入口跡」という史跡があります。

名前だけ聞くと、昔ここに農業用水の取水口があった、それだけの場所に思えるかもしれません。

ところが、この水の行方を南へたどっていくと、話のスケールが一気に変わります。

加須、久喜、幸手、春日部、越谷、草加、八潮。

そして、その先は江戸の葛西領へ。

江戸時代につくられた幹線水路は、約80kmに及びました。

しかも驚くのは、その歴史が昔話で終わっていないことです。

366年後の現在も、葛西用水は農業用水として使われています。

そして2026年には、その歴史と水利技術が評価され、「世界かんがい施設遺産」への認定が決定しました。

その長い水の歴史をたどっていくと、重要な場所として出てくるのが羽生です。

1. 実は、羽生から掘り始めた水路ではない

まず、少し意外なところから始めましょう。

葛西用水は、「1660年、羽生から東京へ向かって80kmの水路を掘った」わけではありません。

歴史はもっと複雑です。

その起源は1592〜1595年ごろ。

現在の東京都葛飾区周辺に、葛西領の農業用水を確保するための「亀有溜井」がつくられました。

その後、新田開発が進むにつれて、より多くの水が必要になります。

そこで、水源をもっと上流へ。

さらに上流へ。

段階的に水源を求めていった結果、1660年に利根川まで到達します。

その場所が、羽生市本川俣でした。

つまり羽生は葛西用水の「出発点」ではありません。下流から発達してきた巨大な水利システムが、ついに利根川という大水源につながった場所です。

そう考えると、本川俣に残る史跡の意味が見えてきます。

2. 1660年、羽生で利根川につながる

万治3年(1660年)。

羽生市本川俣に、利根川から水を取り入れる取入口が設けられました。

この時期に、葛西用水の大きな水路体系が形になります。

開削当時の幹線延長は、約80km。

現在の埼玉県東部から江戸北東部へと続く、大規模な農業用水でした。

このころの名前は、まだ「葛西用水」ではありませんでした。葛西領まで水を安定して送る仕組みが整った1719年から、葛西用水と呼ばれるようになります。

現在なら、大量の水を遠くへ送ると聞けば、大きなポンプを想像するかもしれません。

しかし、江戸時代です。

電気も、電動ポンプもありません。

では、どうやって水を運んだのでしょう。

3. ポンプなし。水は「土地の高さ」で運んだ

答えの一つが、自然流下です。

高いところから低いところへ水が流れる。

当たり前の自然現象ですが、大規模な農業用水では、そのわずかな高低差を利用して遠くまで水を送ります。

葛西用水の仕組みは、それだけではありません。

もともとあった河川や旧河道を利用する。

途中に「溜井(ためい)」を設けて水を蓄える。

上流で使われた水や排水を、下流で再び農業用水として利用する。

この地域では、こうした仕組みを組み合わせた「関東流」と呼ばれる水利技術が発達しました。

ただ80kmの溝を掘って、水を流したわけではありません。

もともとの関東平野の地形や川を利用しながら、水を貯め、流し、再利用する。

土地そのものを巨大な水利システムとして使っていたのです。

4. その水が、江戸の食を支えた

葛西用水によって水を得たのは、現在の埼玉県東部にあたる地域だけではありません。

水路は南へ延び、江戸の葛西領にも水を供給しました。

19世紀には、葛西用水によるかんがい面積が約14,000ヘクタールに達し、米の収穫量は約20,000トンに及んだといわれています。

当時の江戸は、18世紀には人口100万人を超えたともいわれる巨大都市。

当然、その人口を支える大量の食料が必要です。

葛西用水は、江戸周辺の農業生産を支える水のネットワークの一つとして機能しました。

さらに、水路は農業だけに使われたわけではありません。

舟運にも利用されました。

農作物や物資を運ぶ「水の道」でもあったのです。

歌川広重の『名所江戸百景』にも、葛西用水につながる四ツ木通用水が描かれています。

羽生の本川俣から歴史をたどっていくと、

田んぼへ。江戸の食卓へ。そして物流へ。

一本の水路から、当時の社会の仕組みまで見えてきます。

5. 366年後の現在も、水を送り続けている

そして葛西用水の面白さは、ここからです。

江戸時代の用水路なら、「昔は重要だったけれど、今は史跡」と思ってしまいそうですが、葛西用水は違います。

現在も現役です。

1660年から366年。

現在も葛西用水は、約6,800ヘクタールの農地へ農業用水を供給しています。

もちろん、366年間まったく同じ設備を使っているわけではありません。

いまの取水は利根大堰などの近代的な施設に移っていて、本川俣の取入口は跡として残っています。

羽生市本川俣の「葛西用水取入口跡」は、羽生市指定史跡です。

でも、水を農地へ届けるという葛西用水の役割そのものは、形を変えながら現在まで続いています。

6. そして2026年、「世界かんがい施設遺産」へ

2026年、葛西用水の長い歴史に新しい出来事が加わりました。

8月21日、国際かんがい排水委員会(ICID)が、葛西用水を「世界かんがい施設遺産」として認定することを決定しました。

対象地域は、羽生市、加須市、久喜市、幸手市、春日部市、越谷市、吉川市、草加市、八潮市、三郷市、杉戸町、松伏町。

埼玉県東部の12市町にまたがります。

そして認定式は、2026年10月14日にフランス・マルセイユで行われる予定です。

世界かんがい施設遺産は、単に「古い水路」を認定する制度ではありません。

建設から100年以上たち、かんがい農業の発展や、当時として先進的な技術などの基準を満たす、歴史的なかんがい施設を認定する制度です。

江戸時代につくられ、366年後も農業用水として使われている。

その時間の長さそのものが、葛西用水の価値の一つになっています。

7. 羽生では、「昔の入口」と「現在の水路」を両方見られる

この歴史は、羽生で実際にたどることができます。

まず本川俣に残る、「葛西用水取入口跡」。

かつて利根川から水を取り入れていた場所を伝える、市指定史跡です。

そして現在の葛西用水沿いには、歩いて楽しめる場所もあります。

羽生市は、さくら橋から葛西親水公園までの葛西用水沿い約2.2kmを「健康ウォーキングロード」として整備しています。

史跡を見る。

現在の水路を見る。

その水辺を歩いてみる。

そうすると、教科書の中の「江戸時代の土木事業」が、現在の羽生の風景とつながってきます。

8. 66年前、羽生では川そのものが変えられていた

そして葛西用水の話だけを読むと、「なぜ1660年の羽生で、利根川から水を取り入れることになったのか?」という疑問が残ります。

その背景を知ると、さらに面白くなります。

時計を66年戻した1594年。

羽生では、利根川から南へ分かれていた「会の川」が締め切られました。

それは、現在の利根川につながる大規模な河川改修「利根川東遷」の最初期の工事の一つでした。

1594年は、川をどう流すか。

1660年は、その水をどう使うか。

二つの歴史が、同じ羽生に残っています。

おわりに:一本の水路を追うと、羽生から江戸までつながる

普段目にする用水路は、それほど目立つ存在ではありません。

道路の横を流れ、田んぼの間を通り、住宅地の中へ消えていく。

でも、その水路がなぜそこにあるのかを調べていくと、景色が変わります。

約400年前。

増え続ける農地へ水を届けるため、人々は少しずつ水源を上流へ求めていきました。

そして1660年、羽生で利根川につながりました。

水は高低差を利用して運ばれ、貯められ、再利用されながら、広大な農地を潤しました。

その仕組みは改修を重ねながら、366年後の現在も農業を支えています。

そして2026年、その歴史は「世界かんがい施設遺産」として評価されることになりました。

本川俣の「葛西用水取入口跡」は、小さな史跡です。

でも、そこから水の行方を追いかけると、埼玉県東部を縦断し、その先には江戸の農地と巨大都市の暮らしがあります。

一本の水路から、関東平野を見る。

羽生には、そんな歴史の入口もあります。

あわせて読みたい

この話の66年前、羽生では「川そのもの」を変える工事が始まっていました。1594年の「会の川締め切り」から、現在の利根川につながる約60年の河川改修をたどります。

現地を歩く

参考資料

(資料確認日:2026年10月4日)

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