羽生を知るコラム・歴史
東京まで続いた「80kmの水路」が、羽生で利根川につながった — 葛西用水は、いまも現役だった

羽生市本川俣に、「葛西用水取入口跡」という史跡があります。
名前だけ聞くと、昔ここに農業用水の取水口があった、それだけの場所に思えるかもしれません。
ところが、この水の行方を南へたどっていくと、話のスケールが一気に変わります。
加須、久喜、幸手、春日部、越谷、草加、八潮。
そして、その先は江戸の葛西領へ。
江戸時代につくられた幹線水路は、約80kmに及びました。
しかも驚くのは、その歴史が昔話で終わっていないことです。
366年後の現在も、葛西用水は農業用水として使われています。
そして2026年には、その歴史と水利技術が評価され、「世界かんがい施設遺産」への認定が決定しました。
その長い水の歴史をたどっていくと、重要な場所として出てくるのが羽生です。
1. 実は、羽生から掘り始めた水路ではない
まず、少し意外なところから始めましょう。
葛西用水は、「1660年、羽生から東京へ向かって80kmの水路を掘った」わけではありません。
歴史はもっと複雑です。
その起源は1592〜1595年ごろ。
現在の東京都葛飾区周辺に、葛西領の農業用水を確保するための「亀有溜井」がつくられました。
その後、新田開発が進むにつれて、より多くの水が必要になります。
そこで、水源をもっと上流へ。
さらに上流へ。
段階的に水源を求めていった結果、1660年に利根川まで到達します。
その場所が、羽生市本川俣でした。
つまり羽生は葛西用水の「出発点」ではありません。下流から発達してきた巨大な水利システムが、ついに利根川という大水源につながった場所です。
そう考えると、本川俣に残る史跡の意味が見えてきます。
2. 1660年、羽生で利根川につながる
万治3年(1660年)。
羽生市本川俣に、利根川から水を取り入れる取入口が設けられました。
この時期に、葛西用水の大きな水路体系が形になります。
開削当時の幹線延長は、約80km。
現在の埼玉県東部から江戸北東部へと続く、大規模な農業用水でした。
このころの名前は、まだ「葛西用水」ではありませんでした。葛西領まで水を安定して送る仕組みが整った1719年から、葛西用水と呼ばれるようになります。
現在なら、大量の水を遠くへ送ると聞けば、大きなポンプを想像するかもしれません。
しかし、江戸時代です。
電気も、電動ポンプもありません。
では、どうやって水を運んだのでしょう。
3. ポンプなし。水は「土地の高さ」で運んだ
答えの一つが、自然流下です。
高いところから低いところへ水が流れる。
当たり前の自然現象ですが、大規模な農業用水では、そのわずかな高低差を利用して遠くまで水を送ります。
葛西用水の仕組みは、それだけではありません。
もともとあった河川や旧河道を利用する。
途中に「溜井(ためい)」を設けて水を蓄える。
上流で使われた水や排水を、下流で再び農業用水として利用する。
この地域では、こうした仕組みを組み合わせた「関東流」と呼ばれる水利技術が発達しました。
ただ80kmの溝を掘って、水を流したわけではありません。
もともとの関東平野の地形や川を利用しながら、水を貯め、流し、再利用する。
土地そのものを巨大な水利システムとして使っていたのです。
4. その水が、江戸の食を支えた
葛西用水によって水を得たのは、現在の埼玉県東部にあたる地域だけではありません。
水路は南へ延び、江戸の葛西領にも水を供給しました。
19世紀には、葛西用水によるかんがい面積が約14,000ヘクタールに達し、米の収穫量は約20,000トンに及んだといわれています。
当時の江戸は、18世紀には人口100万人を超えたともいわれる巨大都市。
当然、その人口を支える大量の食料が必要です。
葛西用水は、江戸周辺の農業生産を支える水のネットワークの一つとして機能しました。
さらに、水路は農業だけに使われたわけではありません。
舟運にも利用されました。
農作物や物資を運ぶ「水の道」でもあったのです。
歌川広重の『名所江戸百景』にも、葛西用水につながる四ツ木通用水が描かれています。
羽生の本川俣から歴史をたどっていくと、
田んぼへ。江戸の食卓へ。そして物流へ。
一本の水路から、当時の社会の仕組みまで見えてきます。
5. 366年後の現在も、水を送り続けている
そして葛西用水の面白さは、ここからです。
江戸時代の用水路なら、「昔は重要だったけれど、今は史跡」と思ってしまいそうですが、葛西用水は違います。
現在も現役です。
1660年から366年。
現在も葛西用水は、約6,800ヘクタールの農地へ農業用水を供給しています。
もちろん、366年間まったく同じ設備を使っているわけではありません。
いまの取水は利根大堰などの近代的な施設に移っていて、本川俣の取入口は跡として残っています。
羽生市本川俣の「葛西用水取入口跡」は、羽生市指定史跡です。
でも、水を農地へ届けるという葛西用水の役割そのものは、形を変えながら現在まで続いています。
6. そして2026年、「世界かんがい施設遺産」へ
2026年、葛西用水の長い歴史に新しい出来事が加わりました。
8月21日、国際かんがい排水委員会(ICID)が、葛西用水を「世界かんがい施設遺産」として認定することを決定しました。
対象地域は、羽生市、加須市、久喜市、幸手市、春日部市、越谷市、吉川市、草加市、八潮市、三郷市、杉戸町、松伏町。
埼玉県東部の12市町にまたがります。
そして認定式は、2026年10月14日にフランス・マルセイユで行われる予定です。
世界かんがい施設遺産は、単に「古い水路」を認定する制度ではありません。
建設から100年以上たち、かんがい農業の発展や、当時として先進的な技術などの基準を満たす、歴史的なかんがい施設を認定する制度です。
江戸時代につくられ、366年後も農業用水として使われている。
その時間の長さそのものが、葛西用水の価値の一つになっています。
7. 羽生では、「昔の入口」と「現在の水路」を両方見られる
この歴史は、羽生で実際にたどることができます。
まず本川俣に残る、「葛西用水取入口跡」。
かつて利根川から水を取り入れていた場所を伝える、市指定史跡です。
そして現在の葛西用水沿いには、歩いて楽しめる場所もあります。
羽生市は、さくら橋から葛西親水公園までの葛西用水沿い約2.2kmを「健康ウォーキングロード」として整備しています。
史跡を見る。
現在の水路を見る。
その水辺を歩いてみる。
そうすると、教科書の中の「江戸時代の土木事業」が、現在の羽生の風景とつながってきます。
8. 66年前、羽生では川そのものが変えられていた
そして葛西用水の話だけを読むと、「なぜ1660年の羽生で、利根川から水を取り入れることになったのか?」という疑問が残ります。
その背景を知ると、さらに面白くなります。
時計を66年戻した1594年。
羽生では、利根川から南へ分かれていた「会の川」が締め切られました。
それは、現在の利根川につながる大規模な河川改修「利根川東遷」の最初期の工事の一つでした。
1594年は、川をどう流すか。
1660年は、その水をどう使うか。
二つの歴史が、同じ羽生に残っています。
おわりに:一本の水路を追うと、羽生から江戸までつながる
普段目にする用水路は、それほど目立つ存在ではありません。
道路の横を流れ、田んぼの間を通り、住宅地の中へ消えていく。
でも、その水路がなぜそこにあるのかを調べていくと、景色が変わります。
約400年前。
増え続ける農地へ水を届けるため、人々は少しずつ水源を上流へ求めていきました。
そして1660年、羽生で利根川につながりました。
水は高低差を利用して運ばれ、貯められ、再利用されながら、広大な農地を潤しました。
その仕組みは改修を重ねながら、366年後の現在も農業を支えています。
そして2026年、その歴史は「世界かんがい施設遺産」として評価されることになりました。
本川俣の「葛西用水取入口跡」は、小さな史跡です。
でも、そこから水の行方を追いかけると、埼玉県東部を縦断し、その先には江戸の農地と巨大都市の暮らしがあります。
一本の水路から、関東平野を見る。
羽生には、そんな歴史の入口もあります。
あわせて読みたい
この話の66年前、羽生では「川そのもの」を変える工事が始まっていました。1594年の「会の川締め切り」から、現在の利根川につながる約60年の河川改修をたどります。
現地を歩く
参考資料
- 農林水産省「葛西用水」施設概要(世界かんがい施設遺産)
- 農林水産省「令和8年度世界かんがい施設遺産の認定について」
- 農林水産省「世界かんがい施設遺産とは」
- 埼玉県「『葛西用水』が世界かんがい施設遺産に認定されることが決定しました」
- 埼玉県「葛西用水 用水位置図」
- 葛西用水路土地改良区「歴史」
- 羽生市「羽生市の指定文化財」
- 羽生市「羽生市健康ウォーキングコース」
- ウィキメディア・コモンズ「名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね」(歌川広重、国立国会図書館所蔵、パブリックドメイン)
(資料確認日:2026年10月4日)