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連載「羽生の歴史をたどる」第8回・歴史

舟を並べた「浮き船橋」から昭和橋へ。羽生・利根川「川俣の渡し」をたどる

利根川に架かる昭和橋(2011年10月撮影。撮影:京浜にけ、CC BY-SA 3.0、ウィキメディア・コモンズ。縮小して掲載)

羽生市と群馬県明和町の間を流れる利根川。

いまは国道122号の昭和橋を渡れば、車であっという間に対岸へ着きます。

けれど、ここに橋がなかった時代、人々はどうやって利根川を越えていたのでしょうか。

答えは、渡し舟でした。

やがて舟を並べた「舟橋」が造られ、本格的な橋へと変わっていきます。

ところが、橋ができればそれで終わりではありませんでした。

台風で橋が流されると、復旧には長い時間がかかりました。

現在の昭和橋の場所には、大河を越えるために何度も交通手段をつくり直してきた歴史があります。

橋がなかった時代の「川俣の渡し」

現在の昭和橋付近には、かつて「川俣の渡し」と呼ばれる渡船場がありました。

羽生市の資料によると、この場所は日光脇往還の道筋にあたり、橋が架けられる以前は渡し舟で利根川を越えていました。

明和町の広報によると、当時の明和町には渡船場が7か所あり、なかでも川俣の渡船場がいちばん利用されていたようです。

対岸の埼玉県側には「新郷川俣関所」が置かれ、人の出入りと物の流れを取り締まっていたといわれています。関所の跡は、その後の河川の拡幅工事で水没しています。

いまの昭和橋は、何もなかった場所に突然造られたわけではありません。

その前から、ここには利根川を越えて人々を結ぶ「道」がありました。

明治23年、利根川に「舟でできた橋」が現れた

渡し舟よりも安定して川を渡れるようにできないか。

明治時代になると、そんな試みが始まります。

明治22年(1889年)11月に「上武川俣架橋株式会社」が設立され、翌1890年1月、川俣に舟橋が開通しました。

川に何艘もの舟を浮かべ、その上に板を渡した橋で、明和町の広報では「浮き船橋」と紹介されています。

渡るには「橋銭」という通行料を払いました。

明和町の広報に紹介されている当時の記録によれば、橋の中央には40艘ほどの船が浮かべられ、その上には杉の板が張られていました。

馬車が通ると、立っていられないほど揺れたといいます。

さらに橋の一部は、川を行き来する船を通すために動かせる仕組みになっていました。

現代の「橋」から想像するものとは、かなり違います。

浮き船橋の写真は、明和町の広報(平成18年3月10日号の3ページ)で見られます。

しかし、相手は利根川です。

増水するたびに舟も橋も流され、経営は厳しいものでした。

会社はやがて別の会社に買収されました。

舟橋がいつまで使われていたのか。ここは資料によって記述が分かれています。

羽生市の資料では、大正9年(1920年)の道路法施行後に舟橋は姿を消し、県営の無料渡船に代わったとされています。

一方、明和町の広報の記述は、別会社に引き継がれた舟橋が「昭和の初期まで続いた」。

いずれにしても昭和の初めには、本格的な橋を架ける計画が動き始めます。

昭和4年、初代昭和橋が開通

昭和4年(1929年)、群馬県と埼玉県の合意によって、初代昭和橋が開通しました。

長さは574.5m、幅は4.5m。

橋脚は鉄筋コンクリート、橋桁や路面には木材が使われた橋でした。

これによって、「川俣の渡し」に代わる本格的な陸路が誕生します。

明和町の広報によると、完成のときには式典が開かれ、埼玉県と群馬県が陸路で結ばれたことを人々は喜んだと伝えられています。

ようやく利根川に橋ができた。

これでもう、川を渡る苦労は過去のものになる。

そう思いたくなります。

しかし、利根川はそう簡単ではありませんでした。

台風で橋が流された

昭和10年(1935年)9月26日。

台風による増水で、昭和橋の中央部の橋脚と橋桁が流失し、橋はしばらく通れなくなりました。

復旧は簡単ではありませんでした。

昭和20年(1945年)、流された部分にワーレントラス4連を架けて、ようやく復旧します。

流失から10年近くがたっていました。

ところが、その2年後。

昭和22年(1947年)9月、カスリーン台風による増水で、昭和橋は再び橋脚の一部を失います。

昭和24年(1949年)に補修工事が完成しました。

このとき復旧した昭和橋の写真は、埼玉県のページで見られます。トラスの部分がよく分かる1枚です。

橋を造っても、流される。

直しても、また流される。

昭和橋の歴史を見ると、利根川を越える道を維持すること自体が、どれほど大変だったのかが分かります。

羽生にあった橋が、いまも秩父に残っている

そして、この昭和橋には意外な後日談があります。

昭和37年(1962年)に昭和橋が架け替えられると、役目を終えたワーレントラスのうち2連は、捨てられずに運び出されました。

移設された先は、秩父郡皆野町。

荒川に架かる「栗谷瀬橋」の橋桁として、いまも使われています。

埼玉県はこの橋を、

「実は昔 利根川に架かっていました」

という見出しで紹介しています。

先ほどの埼玉県のページでは、昭和24年の昭和橋と現在の栗谷瀬橋を写真で見比べられます。

荒川に架かる栗谷瀬橋(埼玉県皆野町)。トラスは、昭和37年まで利根川の昭和橋に使われていたもの(2015年撮影。撮影:京浜にけ、著作権者により自由な利用が許諾されたもの、ウィキメディア・コモンズ。縮小して掲載)

羽生で利根川を渡っていた橋の一部が、場所を変えて、いまも埼玉県内に残っているのです。

そして現在の昭和橋へ

昭和37年(1962年)5月、昭和橋はアーチ型の新しい橋に架け替えられました。

明和町の広報によると、新しい橋は長さ658.3m、幅7.0m。念願の永久橋になり、木造の橋の危うさと不便がようやく解消されました。

その橋も、交通量の増加や車両の大型化、老朽化に対応するため、再び架け替えられます。

平成18年(2006年)3月には、現在の昭和橋のうち、将来の上り線になる2車線分が完成しました。

群馬県明和町側から見た昭和橋(2006年9月撮影。撮影:竹太郎、Public Domain、ウィキメディア・コモンズ)

その後も工事が進められ、平成26年(2014年)12月に4車線化が完了しました。

私たちがいま何気なく渡っている昭和橋は、こうしてできあがりました。

利根川を渡る方法は、何度も変わってきた

この場所の歴史を並べてみます。

年できごと
江戸時代川俣の渡し(日光脇往還の渡船場)
1890年(明治23年)1月舟を並べた「浮き船橋」が開通
大正〜昭和初め県営の無料渡船(羽生市の資料による。明和町の広報では、舟橋が昭和初期まで続いたとする)
1929年(昭和4年)初代昭和橋が開通
1935年(昭和10年)9月台風で中央部の橋脚と橋桁が流失
1945年(昭和20年)ワーレントラス4連を架けて復旧
1947年(昭和22年)9月カスリーン台風で橋脚の一部が流失
1949年(昭和24年)補修が完成
1962年(昭和37年)5月アーチ型の2代目昭和橋に架け替え。トラス2連は皆野町の栗谷瀬橋へ
2006年(平成18年)3月現在の橋の2車線分が完成
2014年(平成26年)12月4車線化が完了

船で渡る。

舟を並べて橋にする。

本格的な橋を架ける。

流されたら、直す。

それでも流されれば、また造り直す。

現在の昭和橋を車で渡れば、利根川を越えるのにそれほど時間はかかりません。

けれど、その「あっという間」の下には、何度も川を渡る方法をつくり直してきた歴史があります。

次に昭和橋を渡るときは、ほんの少しだけ川面を見てみてください。

いつもの橋が、少し違って見えるかもしれません。

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昭和橋の羽生市側、道の駅はにゅうの敷地には、400年以上前に利根川の流れを変えた工事の跡を示す石柱が立っています。

参考資料

※初代昭和橋の開通日は、昭和4年10月とする資料(明和町の広報)と、同年12月28日とする資料(ウィキペディア)があるため、本文では年までにしています。

(資料確認日:2026年10月5日)

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