羽生を知るコラム・文学
『田舎教師』の羽生を歩く — 20歳で逝った青年教師が見た風景

17歳。
今なら、まだ高校生くらいの年齢です。
明治34年(1901年)、一人の青年が羽生の三田ヶ谷村にやってきました。
名前は、小林秀三(こばやし ひでぞう)。
弥勒高等小学校の代用教員として教壇に立ち、日記を残し、文学にも関心を寄せながら、この土地で暮らしました。
それから、わずか3年。
秀三は明治37年(1904年)、20歳で亡くなります。
彼が残した日記は、やがて田山花袋の手に渡り、一冊の小説を生むことになります。
『田舎教師』。
明治42年(1909年)に発表され、現在まで読み継がれてきた田山花袋の代表作です。
そして羽生には今も、秀三が暮らした寺、教壇に立った学校の跡、作品のモデルとなった人々の記憶が残っています。
今回は、一冊の小説を片手に、その場所を歩いてみましょう。
1. 17歳で教壇へ:小林秀三という青年
『田舎教師』の主人公・林清三のモデルとなったのが、実在した青年・小林秀三です。
秀三は明治17年(1884年)、栃木県の足利に生まれました。
熊谷の中学校を卒業したのち、明治34年(1901年)、17歳で三田ヶ谷村の弥勒高等小学校に代用教員として赴任しました。
秀三は一時期、羽生町の建福寺(けんぷくじ)に下宿し、その後は勤務先である小学校の宿直室で暮らしました。
明治37年(1904年)からは、羽生町で両親と暮らしています。
日記を書き、文学にも強い関心を持っていた秀三。
しかし病に倒れ、明治37年(1904年)9月、20歳という若さで亡くなります。
短い生涯でしたが、秀三が残した日記は、その後思いがけない形で文学史へとつながっていきます。
2. 残された日記から『田舎教師』へ

日露戦争のあと、田山花袋は建福寺を訪れます。
建福寺の住職は、花袋の友人で詩人の太田玉茗。花袋の妻は玉茗の妹で、二人は義理の兄弟でもありました。
そこで花袋は、秀三の新しい墓に気づき、秀三の残した日記に出会います。
若くして亡くなった一人の青年が書き残した日々。
花袋はこの日記をもとに構想を重ね、明治42年(1909年)、小説『田舎教師』を発表します。
作品では、主人公「林清三」の人生を通して、明治30年代の羽生とその周辺の自然や風土、人々の暮らしが描かれました。
120年以上前の羽生で、一人の青年が実際に暮らした痕跡が、小説と現実の両方に残っています。
そこが、『田舎教師』をめぐって羽生を歩く面白さです。
3. まずは羽生駅近くの「建福寺」へ
『田舎教師』をめぐるなら、まず訪れたいのが建福寺です。

秀三が一時期下宿していた寺で、小説では「成願寺」として描かれています。
ここはまた、田山花袋が秀三の日記に出会った場所でもあります。
花袋と玉茗は、国木田独歩らとともに詩集『抒情詩』を出した文学仲間でもありました。

1909年に出た『田舎教師』の巻頭には、「この書を太田玉茗氏に呈す」と記されています。

境内には小林秀三の墓があり、現在も『田舎教師』と実在した青年を結ぶ場所として残されています。
そして後年、『田舎教師』を読んだ文学者たちもこの地を訪れました。
昭和13年(1938年)には、川端康成、片岡鉄兵、横光利一の3人が「田舎教師遺跡巡礼の旅」として羽生を訪れ、その記念の句碑が残されています。
一人の青年の日記から生まれた物語をたどって、後の文学者たちも羽生へやってきました。
そう考えると、建福寺そのものが『田舎教師』の物語の続きを見てきた場所ともいえそうです。
4. 三田ヶ谷へ:教師として暮らした場所
建福寺から、今度は三田ヶ谷・弥勒へ。
ここには、秀三が代用教員として勤めた弥勒高等小学校の跡があります。
現在、学校の建物は残っていません。
その跡地に立っているのが、「田舎教師の像」です。
小説の登場人物だけを知って訪れると「林清三の像」のようにも見えます。
けれど、その背景には、この場所で実際に教師として働いた小林秀三という一人の青年がいました。
小説と現実が、ここで少し重なります。
5. もう一人のモデルを訪ねて「お種さん資料館」へ
三田ヶ谷・弥勒の散策でもう一か所訪れたいのが、円照寺境内にある「お種さん資料館」です。
『田舎教師』に登場する「お種さん」のモデルとなったのは、実在した小川ネンさん。
ネンさんは昭和37年(1962年)に86歳で亡くなり、円照寺には今もネンさんの墓があります。資料館では、ネンさんゆかりの品を見ることができます。
『田舎教師』はフィクションです。
けれど、その向こう側には小林秀三がいて、小川ネンさんがいて、明治時代の羽生で実際に暮らした人たちがいました。
ゆかりの場所を訪ねてから小説を読み返してみると、地名や風景が急に身近に感じられるかもしれません。
6. 約6.4km、「田舎教師」の舞台を歩く
三田ヶ谷周辺をじっくり巡るなら、羽生市観光協会が紹介している「三田ヶ谷・キヤッセコース」を使う方法もあります。
全長は約6.4km、歩いて約1時間半。
キヤッセ羽生を出発し、さいたま水族館、鬼平江戸処、お種さん資料館、田舎教師像を巡るコースです。
前の記事で紹介した羽生PAの「鬼平江戸処」も、このコースの途中にあります。
ここで注意したいのは、建福寺はこのコースから離れていること。
一日で両方訪ねるなら、
羽生駅周辺・建福寺 → 移動 → 三田ヶ谷・弥勒高等小学校跡 → お種さん資料館 → キヤッセ羽生周辺
という順番で考えると回りやすいでしょう。
120年以上前、この場所へ通った青年教師が見ていた羽生の風景を、少しだけ想像できるような気がします。
おわりに:小説を読んでから歩くか、歩いてから読むか
『田舎教師』が発表されたのは1909年。
それから100年以上が経ち、羽生の町も大きく変わりました。
それでも、建福寺へ行けば小林秀三の墓があり、三田ヶ谷へ行けば学校跡があり、そこには青年教師の像が立っています。
円照寺には、お種さんのモデルとなった女性の記憶も残されています。
17歳で教壇に立ち、20歳で亡くなった青年。
彼の日記を田山花袋が読み、一冊の小説が生まれ、その小説を読んだ人たちが、今度は羽生を訪れる。
そう考えると、『田舎教師』という物語は、本の中だけで終わっていないのかもしれません。
小説を読んでから歩くか。
歩いてから、小説を開いてみるか。
次の休日、一冊の本をきっかけに、いつもとは少し違う羽生を歩いてみてはいかがでしょうか。
前の記事から読む
一杯のうどんから、その土地の風景へ。
羽生のうどんを味わったら、今度は三田ヶ谷・弥勒へ。
そこには、明治時代の羽生を舞台にした一冊の小説の記憶が残っています。
前の記事では、羽生PA「鬼平江戸処」の一本うどんから、羽生に根付くうどん文化までを紹介しています。
参考資料
- 羽生市立郷土資料館「羽生市ゆかりの人物」(小林秀三、田山花袋、太田玉茗)
- 羽生市「田山花袋の小説『田舎教師』の舞台となったまち」
- 羽生市観光協会「おすすめコース」(三田ヶ谷・キヤッセコース)
- 建福寺「建福寺について」
- 田山花袋『田舎教師』(左久良書房、1909年、国立国会図書館デジタルコレクション)
- ウィキメディア・コモンズ「Tayama Katai, September 1915」
- ウィキメディア・コモンズ「Authors of Jojōshi, January 1898」
- ウィキメディア・コモンズ「Kempuku-ji (Hanyu)」
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(資料確認日:2026年10月4日)