羽生を知るコラム・歴史
古文書が明かす「教科書に載らない江戸のリアル」。羽生の名主が残した村の記録

歴史の教科書で「江戸時代の農村」と習っても、そこで人々が毎日どんな仕事をし、村をどう動かしていたのかまでは、なかなか見えてきません。
ところが羽生には、その手がかりとなる記録が残っています。
現在の羽生市本川俣に伝わった「堀越家文書」です。
本川俣村で名主を務めた堀越家に伝来した史料群で、現在は慶應義塾大学文学部古文書室に収蔵されています。同室の目録によれば、その数は148点。
年代は明和4年(1767)から明治33年(1900)まで。特に幕末以降の文書が多く残されています。
そこに並ぶのは、後世の人に歴史を伝えるために書かれた物語ではありません。
年貢の勘定、村の費用、人別、治水工事――。
当時、実際に村を運営するために作られた書類です。
その記録を追っていくと、「江戸時代」という大きなくくりの向こう側に、羽生で暮らした人々の具体的な営みが見えてきます。
1.1865年、羽生・本川俣村の名主

幕末の元治2年(1865)。
本川俣村の「五人組帳」には、名主・堀越庭七郎、名主後見・堀越鞍之助らの名前が記されています。
「名主」と聞くと、単に「村で一番偉い人」のように思えるかもしれません。
しかし、残された文書から見えてくるのは、村のさまざまな実務を担う存在です。
年貢を処理する。
村で必要になった費用を記録する。
人や家を把握する。
河川や堤防に関わる工事のお金を扱う。
江戸時代の村は、こうした仕事を村役人たちが担うことで成り立っていました。
2.年貢の裏には、毎年の帳簿づけがあった
江戸時代について、
「農民は領主に年貢を納めていた」
ということはよく知られています。
しかし、実際の村では「米を納めて終わり」というほど単純ではありません。
本川俣村の文書には、幕末の年貢に関する帳簿が数多く残されています。
たとえば慶応2年(1866)の「去丑田畑御年貢米永請拂勘定帳」。前年(丑年)の田畑の年貢について、その受け払いを勘定した帳簿です。
こうした帳簿には、村で年貢を処理するための具体的な記録が残されました。
誰が負担するのか。
どれだけ納めたのか。
それをどう計算し、村として処理するのか。
教科書では一言で終わってしまう「年貢」の背後に、毎年繰り返される会計と行政の仕事がありました。
古文書を見ると、江戸の農村が単なる「農作業をする場所」ではなく、帳簿と書類によって運営される社会でもあったことが分かります。
3.堤防工事のお金も、村が記録していた

羽生の歴史を考えるうえで、水との関係は欠かせません。
利根川に面したこの地域では、水は田畑を潤す一方で、川や堤防を維持する仕事も必要でした。
本川俣村文書には、元治2年(1865)の「川除普請」に必要なお金の受け取りに関する記録も残されています。

「川除」は、川の水から田畑や村を守るための堤防や護岸などに関係するもの。「普請」は土木工事を意味します。
つまり治水は、巨大な河川工事というだけの話ではありません。
工事をすれば、人手も費用も必要になります。
その負担をどう処理するかも、村にとって現実的な問題でした。
紙に残された金銭の記録から、川とともに暮らす羽生の姿が見えてきます。
4.村は、住む人と家の出入りも記録していた
堀越家文書は、江戸時代で終わりません。
明治に入ってからの史料には「家数人別増減差引帳」や、人の移動に関係する「人別送り引取一札扣」なども残されています。
誰が村にいるのか。
家はいくつあるのか。
誰が転出し、誰が入ってきたのか。
村を運営するには、そこに暮らす人々を把握する必要がありました。
教科書では、1868年前後を境に「江戸時代」から「明治時代」へとページが変わります。
しかし実際の地域社会では、昨日まであった村の仕事が突然なくなったわけではありません。
制度が変わるなかでも、人を把握し、費用を計算し、地域を維持する仕事は続いていきます。
堀越家文書が明治33年(1900)まで続いていることも、地域の歴史を見るうえで興味深い点です。
5.羽生には、ほかにも村の古文書が残っている
羽生に残る古文書は、堀越家文書だけではありません。
羽生市指定文化財の「小菅家文書」は137点。羽生市立郷土資料館が管理しています。
このほかにも、平野家古文書や正覚院文書、延命寺・長光寺の朱印状などが市の文化財に指定されています。さらに上新郷に伝わる川俣関所関係文書は、埼玉県指定文化財です。
城や合戦のように目立つ存在ではありませんが、この土地の暮らしを記録した紙が、いまも羽生に残っているのです。
日々の仕事の記録から、江戸の羽生が見える
古文書のおもしろさは、そこに劇的な物語が書かれていることだけではありません。
むしろ、
年貢を計算する。
村の費用を記録する。
川を守るための工事をする。
家や人を把握する。
必要な書類を作る。
そんな当時の人にとっての「普通の仕事」が残っていることにあります。
後世に物語を伝えるためではなく、その時代を実際に動かすために作られた記録。
だからこそ、その紙の向こう側には、教科書だけでは見えてこない人々の暮らしがあります。
「江戸時代の農民」というひとことでまとめられてしまう人々も、実際にはお金を計算し、工事の費用を負担し、人の出入りを記録し、地域社会を運営していました。
おわりに:羽生には、紙に残った村の歴史がある
現在、羽生市立郷土資料館では、羽生の歴史や文化に関する資料の収集・保管、調査・整理が行われています。
小菅家文書をはじめとする古文書も、羽生の歴史を伝える大切な文化財です。
一方、本川俣村の堀越家文書は、現在、慶應義塾大学文学部古文書室に収蔵されています。
古文書は、必ずしも常時展示されているわけではありません。
それでも、百年以上前に羽生で暮らした人たちが書いた文字そのものが、現在まで残っています。
豪華な城や有名な武将だけが歴史ではありません。
帳簿をつけ、川を守り、人を把握し、村を維持する。
そんな「普通の仕事」の積み重ねもまた、羽生の歴史です。
一枚の古い紙から見えてくるのは、遠い昔の知らない世界ではなく、意外なほど現代にも通じる「地域を運営する人々」の姿なのかもしれません。
堀越家文書でたどる年表
| 年 | 文書・出来事 |
|---|---|
| 1767年(明和4年) | 堀越家文書の年代の始まり |
| 1865年(元治2年) | 「五人組帳」に名主・堀越庭七郎、名主後見・堀越鞍之助らの名前。「川除普請」の入用金に関する記録も |
| 1866年(慶応2年) | 「去丑田畑御年貢米永請拂勘定帳」。前年の田畑の年貢の受け払いを勘定 |
| 1868年 | 明治改元 |
| 1869年(明治2年) | 「家数人別増減差引帳」。明治に入っても人と家の把握が続く |
| 1900年(明治33年) | 堀越家文書の年代の終わり |
参考資料
- 慶應義塾大学文学部古文書室『慶應義塾大学所蔵古文書目録 農村文書 武蔵国・上』(2008年)MS-12 埼玉郡本川俣村〔堀越家文書〕
- 慶應義塾大学文学部古文書室「利用案内」
- 羽生市「羽生市の指定文化財」
- 羽生市「羽生市立郷土資料館」
- ウィキメディア・コモンズ「Hanyu_Local_Museum_City_Library_1.JPG」(京浜にけ、CC BY-SA 3.0)
- ウィキメディア・コモンズ「Hanyu_Saitama_Canal_1.JPG」(京浜にけ、CC BY-SA 3.0)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『新編武蔵風土記稿』巻之211〜218(内務省地理局、1884年)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『出水一件』第111冊
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東京市史稿』変災編 第2(東京市、1915年)
(資料確認日:2026年10月4日)