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羽生を知るコラム・歴史

古文書が明かす「教科書に載らない江戸のリアル」。羽生の名主が残した村の記録

羽生市立図書館・郷土資料館(2012年撮影) 写真:京浜にけ / CC BY-SA 3.0(Wikimedia Commons)

歴史の教科書で「江戸時代の農村」と習っても、そこで人々が毎日どんな仕事をし、村をどう動かしていたのかまでは、なかなか見えてきません。

ところが羽生には、その手がかりとなる記録が残っています。

現在の羽生市本川俣に伝わった「堀越家文書」です。

本川俣村で名主を務めた堀越家に伝来した史料群で、現在は慶應義塾大学文学部古文書室に収蔵されています。同室の目録によれば、その数は148点。

年代は明和4年(1767)から明治33年(1900)まで。特に幕末以降の文書が多く残されています。

そこに並ぶのは、後世の人に歴史を伝えるために書かれた物語ではありません。

年貢の勘定、村の費用、人別、治水工事――。

当時、実際に村を運営するために作られた書類です。

その記録を追っていくと、「江戸時代」という大きなくくりの向こう側に、羽生で暮らした人々の具体的な営みが見えてきます。

1.1865年、羽生・本川俣村の名主

『新編武蔵風土記稿』巻之215「本川俣村」の項(明治17年刊。国立国会図書館デジタルコレクション、パブリックドメイン)

幕末の元治2年(1865)。

本川俣村の「五人組帳」には、名主・堀越庭七郎、名主後見・堀越鞍之助らの名前が記されています。

「名主」と聞くと、単に「村で一番偉い人」のように思えるかもしれません。

しかし、残された文書から見えてくるのは、村のさまざまな実務を担う存在です。

年貢を処理する。

村で必要になった費用を記録する。

人や家を把握する。

河川や堤防に関わる工事のお金を扱う。

江戸時代の村は、こうした仕事を村役人たちが担うことで成り立っていました。

2.年貢の裏には、毎年の帳簿づけがあった

江戸時代について、

「農民は領主に年貢を納めていた」

ということはよく知られています。

しかし、実際の村では「米を納めて終わり」というほど単純ではありません。

本川俣村の文書には、幕末の年貢に関する帳簿が数多く残されています。

たとえば慶応2年(1866)の「去丑田畑御年貢米永請拂勘定帳」。前年(丑年)の田畑の年貢について、その受け払いを勘定した帳簿です。

こうした帳簿には、村で年貢を処理するための具体的な記録が残されました。

誰が負担するのか。

どれだけ納めたのか。

それをどう計算し、村として処理するのか。

教科書では一言で終わってしまう「年貢」の背後に、毎年繰り返される会計と行政の仕事がありました。

古文書を見ると、江戸の農村が単なる「農作業をする場所」ではなく、帳簿と書類によって運営される社会でもあったことが分かります。

3.堤防工事のお金も、村が記録していた

羽生市本川俣地区を流れる埼玉用水路 写真:京浜にけ / CC BY-SA 3.0(Wikimedia Commons)

羽生の歴史を考えるうえで、水との関係は欠かせません。

利根川に面したこの地域では、水は田畑を潤す一方で、川や堤防を維持する仕事も必要でした。

本川俣村文書には、元治2年(1865)の「川除普請」に必要なお金の受け取りに関する記録も残されています。

本川俣村の利根川の堤が「凡長百六拾間程」切れたことを伝える届け。弘化3年(1846)6月の出水の記録(『出水一件』第111冊、国立国会図書館デジタルコレクション、パブリックドメイン)

「川除」は、川の水から田畑や村を守るための堤防や護岸などに関係するもの。「普請」は土木工事を意味します。

つまり治水は、巨大な河川工事というだけの話ではありません。

工事をすれば、人手も費用も必要になります。

その負担をどう処理するかも、村にとって現実的な問題でした。

紙に残された金銭の記録から、川とともに暮らす羽生の姿が見えてきます。

4.村は、住む人と家の出入りも記録していた

堀越家文書は、江戸時代で終わりません。

明治に入ってからの史料には「家数人別増減差引帳」や、人の移動に関係する「人別送り引取一札扣」なども残されています。

誰が村にいるのか。

家はいくつあるのか。

誰が転出し、誰が入ってきたのか。

村を運営するには、そこに暮らす人々を把握する必要がありました。

教科書では、1868年前後を境に「江戸時代」から「明治時代」へとページが変わります。

しかし実際の地域社会では、昨日まであった村の仕事が突然なくなったわけではありません。

制度が変わるなかでも、人を把握し、費用を計算し、地域を維持する仕事は続いていきます。

堀越家文書が明治33年(1900)まで続いていることも、地域の歴史を見るうえで興味深い点です。

5.羽生には、ほかにも村の古文書が残っている

羽生に残る古文書は、堀越家文書だけではありません。

羽生市指定文化財の「小菅家文書」は137点。羽生市立郷土資料館が管理しています。

このほかにも、平野家古文書や正覚院文書、延命寺・長光寺の朱印状などが市の文化財に指定されています。さらに上新郷に伝わる川俣関所関係文書は、埼玉県指定文化財です。

城や合戦のように目立つ存在ではありませんが、この土地の暮らしを記録した紙が、いまも羽生に残っているのです。

日々の仕事の記録から、江戸の羽生が見える

古文書のおもしろさは、そこに劇的な物語が書かれていることだけではありません。

むしろ、

年貢を計算する。

村の費用を記録する。

川を守るための工事をする。

家や人を把握する。

必要な書類を作る。

そんな当時の人にとっての「普通の仕事」が残っていることにあります。

後世に物語を伝えるためではなく、その時代を実際に動かすために作られた記録。

だからこそ、その紙の向こう側には、教科書だけでは見えてこない人々の暮らしがあります。

「江戸時代の農民」というひとことでまとめられてしまう人々も、実際にはお金を計算し、工事の費用を負担し、人の出入りを記録し、地域社会を運営していました。

おわりに:羽生には、紙に残った村の歴史がある

現在、羽生市立郷土資料館では、羽生の歴史や文化に関する資料の収集・保管、調査・整理が行われています。

小菅家文書をはじめとする古文書も、羽生の歴史を伝える大切な文化財です。

一方、本川俣村の堀越家文書は、現在、慶應義塾大学文学部古文書室に収蔵されています。

古文書は、必ずしも常時展示されているわけではありません。

それでも、百年以上前に羽生で暮らした人たちが書いた文字そのものが、現在まで残っています。

豪華な城や有名な武将だけが歴史ではありません。

帳簿をつけ、川を守り、人を把握し、村を維持する。

そんな「普通の仕事」の積み重ねもまた、羽生の歴史です。

一枚の古い紙から見えてくるのは、遠い昔の知らない世界ではなく、意外なほど現代にも通じる「地域を運営する人々」の姿なのかもしれません。

堀越家文書でたどる年表

年文書・出来事
1767年(明和4年)堀越家文書の年代の始まり
1865年(元治2年)「五人組帳」に名主・堀越庭七郎、名主後見・堀越鞍之助らの名前。「川除普請」の入用金に関する記録も
1866年(慶応2年)「去丑田畑御年貢米永請拂勘定帳」。前年の田畑の年貢の受け払いを勘定
1868年明治改元
1869年(明治2年)「家数人別増減差引帳」。明治に入っても人と家の把握が続く
1900年(明治33年)堀越家文書の年代の終わり

参考資料

(資料確認日:2026年10月4日)

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