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羽生の歴史・文化コラム

羽生城 — 上杉・北条が攻防を繰り広げた「北埼玉の要衝」

羽生市役所から北東へ500mほど、住宅街の中に古城天満宮(こじょうてんまんぐう)という神社があります。

一見すると街の小さな神社ですが、この場所はかつて羽生城の一角で、「天神曲輪(てんじんくるわ)」と呼ばれていました。

現在、境内には「羽生城跡」の石碑や、かつての城の姿を伝える説明板が立っています。羽生城跡は羽生市の指定史跡で、戦国時代の羽生を今に伝える場所のひとつです。

羽生城は、上杉謙信と後北条氏が関東の覇権を争った時代、その最前線にあった城でした。

今回は、いまの街並みからはなかなか想像できない「戦国時代の羽生」の歴史をたどってみます。

1. 羽生城は、いつ、誰が築いた?

羽生城がいつ、誰によって築かれたのか。その正確な年代や築城者は、今もはっきりしていません。

羽生城と深い関わりがあったと考えられているのが、広田直繁(ひろた なおしげ)と木戸忠朝(きど ただとも)の兄弟です。

天文5年(1536年)に二人が小松神社の三宝荒神の願主となったことを示す銘文が残っています。このころには、広田・木戸氏が羽生周辺を拠点に活動していたと考えられます。

一方、江戸時代に編まれた『新編武蔵風土記稿』をもとに、木戸忠朝が羽生城を築いたとする説もあります。

つまり羽生城は、「○○年に○○が築城した」と言い切れる城ではなく、その成り立ちには今も分からない部分が残る城です。

羽生城は利根川沿いの台地に築かれ、周りを沼地に囲まれていました。こうした水辺の地形を、守りに生かした城だったと考えられています。

いまは住宅地になっている場所も、戦国時代にはまったく違う風景が広がっていたのでしょう。

2. 上杉謙信側の重要拠点へ

永禄3年(1560年)、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)は大軍を率いて関東へ進出しました。

上杉謙信像(上杉神社所蔵、17世紀。Public Domain、ウィキメディア・コモンズ)

このとき広田直繁・木戸忠朝らも謙信に従い、上杉方として動くようになります。

しかし関東では、上杉氏と後北条氏の勢力争いが続いていました。

羽生城の南西には忍城(現在の行田市)があり、周辺では後北条氏の勢力がしだいに強まっていきます。

永禄12年(1569年)には、上杉氏と北条氏の間に「越相同盟」が結ばれました。

翌永禄13年(1570年)、広田直繁が上野国(現在の群馬県)の館林城へ移ると、それまで皿尾城(さらおじょう)を守っていた木戸忠朝が羽生城を守ることになります。

しかし越相同盟は長く続かず、元亀2年(1571年)には事実上崩れました。

両勢力の対立が再び激しくなると、羽生城は北関東と武蔵を結ぶ上杉方の重要な前線拠点になっていきます。

3. 天正2年、羽生城「自落」

羽生城をめぐる攻防が大きな転機を迎えたのは、天正2年(1574年)です。

後北条氏側から圧力を受けていた羽生城を救うため、上杉謙信は関東へ出陣しました。

ところが同年4月、利根川が増水します。

謙信の軍勢は川を渡ることができず、羽生城へ兵糧を届けることもできませんでした。

同年10月にも謙信は関東へ出兵しましたが、関宿城を救うことはできず、羽生城の状況も変えられませんでした。

そして同年閏11月、謙信はついに羽生城を守り続けることを断念します。

木戸忠朝らに城を壊して引き払うよう命じ、羽生城は「自落」しました。

忠朝らは城を出て、上野国の膳城(ぜんじょう)方面へ移ったとされています。

その後、羽生城は後北条氏側の支配下に入り、忍城を本拠とする成田氏が治めることになりました。

長く上杉方の前線を支えてきた羽生城は、ここで大きく立場を変えます。

4. 徳川家康の関東入国と羽生城の終わり

それから16年後の天正18年(1590年)。

豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅びると、関東の支配の形は大きく変わります。

徳川家康が関東に入り、家康の重臣・大久保忠隣(おおくぼ ただちか)が羽生城主となりました。

ただし、忠隣自身が羽生城に住んでいたわけではなく、家臣が城代として羽生を治めていました。

しかし、羽生城の歴史もまもなく終わりを迎えます。

慶長19年(1614年)、大久保忠隣が改易されると、羽生城は廃城となりました。

戦国時代には上杉・北条の争いの最前線だった羽生城も、徳川の時代になって、その役割を終えたのです。

5. いまの街に残る「羽生城」の痕跡

いま、羽生城の建物や城郭そのものは残っていません。

城跡の大部分は住宅地や工場になっていて、何も知らずに歩けば、ここに戦国時代の城があったとは気づかないかもしれません。

それでも街を歩くと、羽生城や城主・木戸氏にまつわる歴史の痕跡が今も残っています。

古城天満宮

羽生城の「天神曲輪」があったとされる場所です。

境内には羽生城跡の石碑と説明板があり、いまの街と当時の城の位置関係を知る手がかりになります。

羽生城の歴史をたどって歩くなら、まず訪れたい場所です。

大天白神社(だいてんばくじんじゃ)

弘治3年(1557年)、木戸忠朝の夫人が安産を願って創建したと伝えられています。

いまは「羽生大天白藤まつり」で知られる神社ですが、羽生城主ゆかりの場所でもあります。

源長寺(げんちょうじ)

木戸忠朝が開いたと伝えられる寺院です。

境内には、羽生城主の墓碑と伝わる古い石塔が残っています。

城そのものが失われた今、木戸氏と羽生のつながりを伝える場所のひとつです。

約3kmで歩ける「羽生城歴史めぐり」

羽生市は、こうした史跡を巡る「羽生城歴史めぐり本丸コース」というウォーキングコースを紹介しています。

距離は約3km、歩いて約45分です。

古城天満宮や大天白神社、源長寺などを巡りながら、羽生城と城下の歴史をたどれます。

いまの羽生城跡には、天守や石垣が残っているわけではありません。

だからこそ、神社や寺、街の地形を手がかりに「ここに城があった時代」を想像しながら歩くのが、羽生城めぐりのおもしろさかもしれません。

いまは静かな住宅街になった羽生の街。

その風景の下には、上杉謙信と後北条氏が激しく争った戦国時代の歴史が眠っています。

いつもの街を、少し違った目で歩いてみてはいかがでしょうか。

参考資料

関連リンク

※羽生城の築城年代・築城者などには諸説があるため、本記事では羽生市の公開資料などをもとに、言い切れない部分は伝承・推定として書いています。

(資料確認日:2026年10月4日)

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