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羽生を知るコラム・歴史

昔の羽生は「貧しかった」のか? 利根川と藍・綿がつくった北埼玉の経済史

羽生駅構内に掲げられた藍染めの「はにゅう」の幕(2014年撮影) 写真:Unknown chemist8103 / CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

「昔の羽生って、やっぱり田舎で貧しかったの?」

昔の農村というと、米をつくり、年貢を納めながら慎ましく暮らす――そんなイメージを持つかもしれません。

しかし、江戸から明治にかけての羽生の産業を調べてみると、もう少し複雑な姿が見えてきます。

重要なのが、羽生のすぐ北を流れる利根川です。

川は、ときに水害をもたらす存在でした。

一方で、水田農業を支え、江戸と地域を結ぶ交通路となり、さらに川がつくった土地そのものが、後の羽生の産業を育てました。

米だけではありません。

綿をつくり、藍で染め、織物にする。

江戸後期から明治にかけて、羽生では農業と手工業が結びついた経済が発達していきます。

「豊かだった」「貧しかった」という二択では見えてこない、羽生の経済史を追ってみましょう。

1.利根川は、水害とともに江戸との物流ももたらした

利根川と昭和橋(群馬県明和町側から撮影)

羽生の北側には利根川が流れています。

現在でも市を代表する風景のひとつですが、かつての利根川は物流の大動脈でもありました。

羽生市によると、江戸時代になると沿岸には多くの河岸ができ、舟運によって江戸と結ばれていました。

江戸へは米、炭、酒などが運ばれ、反対に江戸からは塩、醤油、肥料、日用雑貨などが木造の高瀬船で運ばれていたといいます。

舟運は明治に入っても続きます。明治10年(1877)には内国通運会社の蒸気船「通運丸」が、東京から北河原(現在の行田市)まで定期的に運航するようになりました。

つまり江戸時代の羽生は、単に「遠く離れた農村」だったわけではありません。

川を通じて、大消費地・江戸と商品が行き来する場所でもありました。

もちろん、川にはもう一つの顔があります。

洪水です。

利根川をはじめとする河川と暮らしてきた羽生では、治水は地域にとって重要な問題でした。

しかし興味深いのは、川がつくった土地が、同時に新しい産業の条件にもなったことです。

2.自然堤防の畑で、綿と藍をつくった

羽生市下岩瀬に残る会の川(かつての利根川)の自然堤防 写真:京浜にけ / CC BY-SA 3.0(Wikimedia Commons)

羽生というと現在でも水田の風景が目立ちます。

実際、羽生市は現在も県内有数の米どころです。

しかし、歴史的な農業は米だけではありませんでした。

羽生市の資料によれば、利根川によって形成された自然堤防や、水田の中に無数に点在する自然堤防の土壌は、綿作や藍作に適していました。

そこで綿の栽培が盛んになります。

綿があれば、糸ができます。

そして羽生周辺では、もう一つ重要な作物が栽培されていました。

藍です。

羽生・加須・行田など北埼玉では、江戸時代後半の天明期ごろから藍が栽培されたといわれています。

米をつくる水田地帯の中に、綿や藍を育てる土地がある。

この組み合わせが、後の羽生を特徴づける産業につながっていきます。

3.農閑期の手仕事が、武州の藍染め産業に育った

羽生市によると、この地域の藍染めは、農家の主婦が農閑期を利用して家族の衣服をつくったことから始まったといわれています。

つまり最初から巨大な工場があったわけではありません。

農業の合間に糸を扱い、染め、布をつくる。

農村の暮らしの中にあった手仕事です。

ところが、それが次第に地域産業へ発展します。

羽生周辺では、綿からつくった糸を藍で染めて織った「青縞」が生産されるようになりました。

やがて羽生・加須・行田を中心とする武州の藍染めは、一大産業へ成長します。

羽生市の資料には、明治時代には紺屋が300軒余りあったと記されています。

別の羽生市資料でも、最盛期の武州には200軒以上の紺屋があったと説明されています。

数字は資料の対象時期や地域範囲によって異なりますが、少なくとも藍染めが一部の職人だけの小さな仕事ではなく、この地域を代表する産業になっていたことは確かです。

現在も「武州正藍染」として、その技術は羽生に残っています。

4.農村に、売って現金を得る産業があった

ここが、「昔の羽生は貧しかったのか?」という問いを考えるうえで重要です。

農家が自分たちで食べる米や麦だけをつくっているなら、経済の多くは自給の中で完結します。

しかし綿や藍、そして織物は違います。

加工し、商品として販売できます。

羽生では、毎月4と9のつく日に市が開かれ、とても賑わったと伝えられています。

『新編武蔵風土記稿』巻之213 羽生領「町場村」の項。「毎月四九ノ日市ヲ立テ木綿類ヲ鬻ケリ」とある(明治17年刊。国立国会図書館デジタルコレクション、パブリックドメイン)

さらに羽生には利根川舟運があり、江戸へ米などを運び、江戸から肥料や日用品などを受け入れる物流ルートもありました。

原料をつくる農業があり、それを染めて織る仕事があり、品物が行き交う市と舟運がある。

江戸後期から明治にかけての羽生には、こうした複数の仕事が重なり合っていました。

単純な「自給自足の農村」というイメージでは捉えきれません。

5.羽生の暮らし向きは、立場によって違った

ここは慎重に考える必要があります。

綿や藍の産業が盛んだったからといって、羽生の住民全員が裕福だったとは限りません。

土地を多く所有する農家もいれば、小規模な農家もいたでしょう。

職人、商人、奉公人など立場によって生活水準も違います。

水害によって大きな被害を受けることもありました。

そのため、

「昔の羽生は豊かな農村だった」

とも、

「貧しい農民ばかりの土地だった」

とも、単純には言えません。

ただ、羽生市の資料などから分かることがあります。

羽生には米以外にも商品を生み出す産業があり、市や舟運による流通があり、それが近代の繊維産業へつながっていきました。

これは羽生の経済を考えるうえで重要な事実です。

6.藍と織物は、近代の羽生へ続いていった

江戸時代の農家の手仕事から始まったとされる藍染めは、明治以降も消えませんでした。

むしろ織物産業として発展していきます。

羽生市によると、その後、木綿を原料とする足袋の生産が始まり、大正年間に電動ミシンが導入されて以降、「衣料のまち」としての羽生の礎が築かれました。

現在も羽生市には、武州正藍染の技術を受け継ぐ事業者があります。

たとえば小島染織工業は明治5年(1872)ごろの創業。当初は農作業用の股引の生地を織り、明治20年ごろには近隣の行田の足袋産地向けの織物もつくるようになりました。

大正3年(1914)創業の野川染織工業でも、糸を藍で染めてから織る伝統的な技術が受け継がれています。

剣道着や半纏などに使われる「武州正藍染」は、埼玉県知事が指定する伝統的手工芸品のひとつです。2008年には、羽生市・加須市・行田市で生産される武州正藍染が、特許庁の地域団体商標にも登録されました。

江戸後期の農村で行われていた綿作や藍作、農閑期の手仕事が、形を変えながら近代の地域産業へつながっていったのです。

おわりに:利根川のそばだから生まれた経済

利根川は羽生にとって、単純に「洪水を起こす怖い川」ではありませんでした。

水田を潤す水。

江戸へ商品を運ぶ道。

そして綿や藍の栽培に適した自然堤防をつくる川でもありました。

その土地で米をつくり、綿や藍を育て、農閑期には糸を染め、布を織る。

やがてその仕事が地域産業になっていく。

その流れはさらに足袋づくりへ、そして「衣料のまち」へとつながっていきます。

昔の羽生を「豊かだった」「貧しかった」という一言で評価するよりも、こちらの方が実態に近そうです。

羽生は、米だけをつくる農村ではありませんでした。綿や藍を育て、染め、織り、商い、やがて足袋や衣料産業へつながる複合的な地域経済を持っていました。

現在まで残る武州正藍染は、その歴史を目に見える形で伝えてくれています。

藍と織物の年表

年出来事
江戸時代利根川沿岸に河岸ができ、高瀬船で江戸と結ばれる
天明年間(1781〜1789年)羽生・加須・行田など北埼玉で藍の栽培が始まったといわれる
1872年(明治5年)ごろ小島染織工業が創業。農作業用の股引の生地を織る
1877年(明治10年)蒸気船「通運丸」が東京〜北河原(行田市)を定期運航
1887年(明治20年)ごろ小島染織工業が行田の足袋産地向けの織物製造を始める
明治時代羽生の紺屋が300軒余りに(羽生市資料)
1914年(大正3年)野川染織工業が創業
大正年間電動ミシンの導入で「衣料のまち」の礎が築かれる
2008年(平成20年)武州正藍染が特許庁の地域団体商標に登録

参考資料

(資料確認日:2026年10月4日)

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